第2次京都遠征第1弾 洞ヶ峠
日本では古来から峠は特別な場所でした。
今でこそ集落境、市町村境、県境を隔てるもの。
または遠出するときの難所、もしくは登山やトレッキングの目印程度の認識である峠。
しかし江戸時代以前、峠は国境であり、別世界への入り口であったのです。
それはまさに不思議の国のアリスのうさぎ穴。
ハリーポッターの9と3/4ホーム。
峠は畏怖と憧憬の対象だったのです。
そして戦国時代には国境を隔てる峠は重要な防衛拠点となりました。
各峠には関所が築かれ、現代で言えば空港のような強固なセキュリティが築かれていたのです。
そんな峠は当たり前のように日本人の言葉にも浸透していきました。
とくに有名なものはドラマなどにもよく出てきますね。
「今夜が峠でしょう」というアレです。
峠を趣味の中心に置くものとしてはとてもよくできた言葉だと思います。
乗り越えたときの安堵感、あの達成感は代えがたいものがあります。
そして今回紹介するのはそんな慣用句で有名な峠。
関ヶ原とは別の、もう一つの天下分け目の戦いで生まれた慣用句です。
それではレポスタート!
今回は短いよ!
現在地は初登場となる自治体。
大阪府枚方市(おおさかふひらかたし)
ひらパー兄さんの住処です。
敦賀は一応中部地方ですが、関西とのつながりが強いので大概の人は知ってますよ。
結構意外がられますが。
この大都会に峠はあります。
そしてこの車が溢れるあからさまな幹線道路、こいつも只者ではありません。
国道1号
東京と大阪を結ぶ、日本一般国道界のドン。
500以上のナンバーからなる国道の中で最も若い「1」を与えられている道です。
古くは五街道の長、「東海道」を踏襲するこの道。
峠を期待された皆様・・・まぁそういうことです(笑)
洞ヶ峠(ほらがとうげ)、着
標高70.1m、峠の痕跡はかろうじて残った右奥の雑木林くらいです。
何せここは天下の国道1号。
70m程度の峠は京阪国道枚方バイパス(けいはんこうくどうひらかたバイパス)の餌食です。
しかしここに峠があった名残はこの方がしっかり伝えてくれています。
峠はあってないようなものなのに、峠茶屋だけ残ってる!!
これにはテンションあがった!
さすが京都と大阪を隔てる峠だ!
商売根性が違うぜ!!
そして先述の通り、この峠は現在でも県境として機能しています。
ここも初登場ですね。
京都府八幡市(きょうとふやわたし)
「はちまん」ではなく「やわた」です。
間違えるとそこそこ怒られます(汗)。
人口は73500人程度、わが敦賀市とほぼ同規模ですね。
親近感わきます。
切り通し・・・なのかな・・・?
もはやよくわかりませんが、1990年代初頭までこの辺りは雑木林が生い茂る普通の国道峠だったそうです。
しかし枚方バイパスの開通と同時に、大阪京都両側から開発が始まり、このような現状となりました。
この雑木林の裏は摂南大学枚方キャンパス。
大学の裏ならここはしばらくは大丈夫かな?
かつてここは関ヶ原に先立つ天下分け目の合戦の舞台でした。
山崎の合戦(かまざきのかっせん)
本能寺の変にて織田信長を弑逆した明智光秀と中国大返しで機内に帰ってきた羽柴秀吉との合戦です。
この合戦に勝利した秀吉は映画にもなった清洲会議(きよすかいぎ)を経て、天下人への礎を築きました。
その際に秀吉側に大きく天秤を傾けたのが、この洞ヶ峠に陣取っていた筒井順慶でした。
順慶はもともと光秀の盟友でしたが、戦局には加わらずこの峠上から有利な方に加勢しようと日和見をしていたとの伝承があります。
このことから現在でも、どっちつかずで日和見をすることをこう呼ぶようになったのです。
「洞ヶ峠を決め込む」
この合戦からはほかにも「天王山」「三日天下」などの成句がありました。
正に日本の歴史を決めた一戦だったというわけです。
ただやはり歴史ある場所だけあって、名前は未来永劫残ることでしょう。
倉庫にもつけられるくらいですから。
名前はね・・・。
大都会の峠。
それはかくも儚いものでした。
しかしそこにある歴史は決して消えはしない。
いつまでも残り続けることでしょう。
ちょっと感傷的になっちゃいましたね・・・。
以上、洞ヶ峠編
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