鹿児島遠征第1弾 西田橋

えらい遠くに来たもんだ

これまでの遠征から考えればダントツで遠い土地。
色々ありまして、来る機会に恵まれた土地。
当然、発上陸ですし、恐らく僕のこれまでの人生の中で最も赤道に近づいたときでもないかと思います(笑。
ロスより南だよね、鹿児島って。

そして知らない土地には魅力的なものが色々ある。
これから暫くご紹介させていただきます!
レポスタート!

桜島!!!

鹿児島といえばこれですよね。
やはり本物は凄いな。
火山灰ってやっぱり目が痛くなるんだということを実感しましたよ。
しかし、気になるのはそのかなり手前。

石橋記念公園(いしばしきねんこうえん)

普通ならどこかの石橋さんの記念公園と思うかもしれません。
しかしそうではないからこそ、僕はここにいるのです。
ちなみにここは鹿児島県鹿児島市(かごしまし)。
東洋のナポリと呼ばれる町は国内に多いですが、個人的にはヴェスビオ火山との関係を考えれば鹿児島が一番しっくり来ます。
さて、石橋公園の名の由来ですが、それはそのまま。
かつて鹿児島市内にあった石橋を移設しているところからきています。

それも三橋も!!!

石橋がいっきに3つも拝めるとはなかなか無いスポットです。

しかし公園に集めるなんてなんかなぁ・・・。
そう言いたい気持ちもわかります。
しかし僕はファインプレーだといいたい。
ここに移設された理由が理由なのですから。

甲突川五石橋(こうづきがわごせっきょう)

今ここにある三橋はいずれも、かつては甲突川(こうづきがわ)という2級河川にかかる石橋でした。
長く鹿児島市のシンボルとして知られていたものでもあります。
しかし終わりのときは突然訪れます。

平成5年8月豪雨

8月6日、鹿児島市の一日の雨量は259mmに達する猛烈な雨が降り、市内中心部を流れる川が軒並み増水しました。
甲突川はその中でも最も市中心部を流れていることもあり、甚大な被害をもたらします。
五石橋の内、新上橋(しんかんばし)と武之橋(たけのはし)は完全に流失し、江戸時代末期からの歴史に幕を下ろすこととなりました。
残った三橋も受けたダメージは絶大でした。
そこで、この公園への移設が決まったのです。
生き残った三橋はもちろん、もともとの五橋の中でも最大規模の幅員と最も高い工費を用いて建設されたのが、これから紹介する橋です。
あ、ちなみに、ここまでただの前振りですからね(笑。

西田橋(にしだはし)

1846年竣工、江戸時代末期です。

かつては参勤交代にも使われたということもあり、非常に立派な造りです。
これが平成の世で県道の橋として生きていたというんだから驚きです。

石橋はサイドビューでしょう!!

4連ですよ。
これはまさに文化財クラス。
明らかに只者ではありません。
さすが洪水に耐え切っただけのことはあるわ。
近くで見るとその剛健さに圧倒されます。
そして気になるのは足元。

ガンダムの足みたいだ・・・

いわゆる水割工(みずわりこう)。
鼻石といわれる石材です。
このでかい水割工が洪水からこの橋を守ったことは創造に固くありません。
江戸時代の石工は、現在の異常気象に勝ったのです。
緻密な石組み。
これが江戸時代に削られ整形されたものだというのだから恐れ入ります。
もちろん組み直されてはいますが、その精巧さは十分現在でも通用しています。
いやぁ見れば見るほど美しい。
幾何学的な構造物というのはなぜこうも人の心を掴むのでしょうか。
感動すら覚えます。
現在橋の下を流れているのは人工的な水路。
橋の付属品といっても過言ではないでしょう。
夏は水遊びも出来るみたいですよ。
個人的にアーチの石材では迫受石が好きです。
ただここでは見えないのでちょっと残念。
イタリア人のような高い鼻が原因です。
まぁこれはこれでといったところですが。
めっちゃ見やすく整備してあるから。
こういう時は助かるわ~。
実際こんな位置からは長靴必須ですからね。
ありがたいです。
さぁそろそろ渡ってみましょう!
やっぱり橋は渡ってなんぼ。
さぁ渡ろう!
特徴的な欄干です。
高規格な橋によく見られるこれ、名前知ってます?

擬宝珠(ぎぼし)

地蔵菩薩などの仏様が手に持っている宝珠(ほうじゅ)の形だとも、葱の持つ独特の臭気が魔よけになると考えられ葱坊主に肖ったとも言われていますが、正確なところは不明です。
なんにせよ、神社仏閣にも用いられる装飾が橋に用いられている、その時点で端の重要さをうかがい知ることが出来ます。
ちなみに擬宝珠のついた欄干のことをそのまんま、擬宝珠高欄と呼びます。
渡ると想う。

やっぱり現役時代が見たかった。

公園の橋じゃ味気ないな。
もちろん何も無くなるより全然良いんですが。
渡るのは一瞬です。
石畳の美しい橋。
満喫させていただきました。

しかしこの橋、他の橋にはない特徴を持っています。
それはこの橋を渡れば誰もが気付くもの。

門付き橋!!

かつては薩摩島津家の居城である鹿児島城から参勤交代に利用された薩摩街道の入り口にあった門。
それはまさにこの西田橋の袂にあったのです。
西南戦争の際にも、この門は活躍したのでしょうか。
ロマンが広がります。
島津家の家紋である島津十字。

鹿児島県ではなく「薩摩藩」の影響の強さを感じます。

江戸時代だなぁ。

この門は再現のようですが、実際もこんな光景だったのでしょうね。
写真も残っているので、なかなか感慨深かったです。
今は余生を穏やかに過ごす橋。
日本の過渡期を生き抜いた橋は、斯くも立派なものでした。

以上、西田橋編

この道往けば act2

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