石川遠征第6弾 曽々木海岸旧道群 哀れなる岩穴編

その中にはいくつか「?」が浮かぶ謎のものがありました。

写真左に伸びているラインもそのひとつ。
イルミネーションなどで使うビニールケーブルのようにも見えます。
照明にしては小さすぎるしな・・・。

隧道を抜けるとまた隧道

いいねぇ。
海岸ならではの連続隧道。
しかもそれが素彫りで明治時代からあるって言うんだからたまりませんよね。

しかしまずは振り返らねばなりません。
あの謎のものの招待を解き明かさねば。
やっぱりいい隧道!!
なのに・・・、

その名前はやめてくれ!

ここはかつて恋人だった村の男女がこの洞内で接吻を交わしたという伝説を持つ恋人の聖地。
まぁ百歩(千歩?)譲って接吻隧道でもいいとしよう。
しかし個人的に最も許せないのが、洞内に合った謎ケーブル。
ケーブルはこんな風に張り巡らされています。
もうお気づきですね・・・。

これがせっぷんトンネルの全貌だ!!

隧道内に浮かび上がるハートを波打ち際で書き写す男女!
落石の恐怖によるつり橋効果によって結ばれるベンチ!
ここが恋人の聖地たる所以!!
・・・哀れでならないな・・・。
せっぷんトンネルから見えていた隧道はほんの30m程度の短い隧道でした。
お名前は不明のため、旧曽々木隧道(そそぎずいどう)と仮称しましょう。
しかしここを抜ける前に、少し左に目を向けねばなりません。

巨大な海食洞

そしてそこに架かる橋


ここに見えている橋は曽々木隧道内部にほかなりません。
つまり曽々木隧道は正確に言うなら、海食洞に隔てられた2つの隧道の総称ということもできますね。
しかし隧道内に橋とはやってくれます。
この海食洞、名を「福が穴(ふくがあな)」というので、福が穴橋(ふくがあなはし)とでも仮称しましょう。
振り返ればこんな感じ。
明治からの穴に近代的な遊歩道。
不思議な感じですが悪くないです。
つうかせっぷんトンネルの惨状に比べたら何でも・・・。
これが旧旧道と旧道の分岐点。
隧道が必要な地形だということがよくわかります。
そしてこちらが曽々木隧道。
とはいえこちらも廃隧道です。

そしてなぜかこの先に行かなかった僕。
なんでだろう?
単純にボケてただけな気もします。
旧道入り口にはこんな立派なバリケードがありました。
現在は開いていましたが、これのおかげで1台間違えて曽々木隧道に突っ込みかけた車がいましたが、いいんだろうか。
訪れる際にはご注意を。
そしてここまでくれば現道合流地点はもうすぐ。
現道が八世乃洞門新トンネル、旧道は八世乃洞門と曽々木隧道、旧旧道はせっぷんトンネルと旧曽々木隧道を崖回りで抜けているということがわかります。
そしてここにあるのが非常に気になるこの石碑。
これはまさに道の歴史に直結するものでした。

麒山道(きざんどう)

上の石碑は麒山和尚という江戸時代の道を開いた御住職のものでした。
1792年、つまり今から224年前にすでに道はあったということ。
そして明治20年の大改修で掘られたのが、せっぷんトンネルであり、旧曽々木隧道だということになります。

そんな歴史ある隧道になんてことしてくれてんだ

そしてその後の道の移り変わりも、しっかり残っていました。
これだけ道の歴史を語ってくれる看板も珍しい。
輪島珠洲における道の重要性がよくわかります。
地図によって位置関係を確認しましょう。
おおむねこんな感じ。

赤は旧道の明かり区間。
青は旧道の隧道区間。
紫は旧旧道の明かり(遊歩道)区間。
緑は旧旧道の隧道区間。

そしてオレンジは旧旧道の廃道区間となっています。


ある意味現役の部分は紫と緑だけという状況。

なかなか激しい戦いでした・・・。
2009年11月竣工。
2007年の震災発生から2年越しで生み出された八世乃洞門新トンネル。
地震に最も強いといわれるトンネルという構造物。
いつか山道といわれる道はすべてトンネルにとって変わられる時代が来るのかもしれません。
わかりやすい新旧分岐は西側も変わらずでした。
3代の道が残る(山道も含めれば4代以上か)曽々木海岸。

地震が絡む複雑な事情ではありますが、交通の難所として名の残る重要ポイントだったことでしょう。
その残り香は今もなお、確実に残っているのです。

以上、曽々木海岸旧道群編

この道往けば act2

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