旧国道8号第10弾 敦賀市内 後編
堤防から旧道はこのように見えています。
この堤防は明らかに後年できたものなので、実際は旧道と同じレベルで橋が架かっていたと思われます。
それでは見てみましょう。
旧木ノ芽橋!
なんもねえ・・・
ものの見事になんもねえ。
そしてこの先、橋を渡ったとしてもどうせ旧道をトレースすることはできないということがわかりました。
見た目にでもデカい工場がありますね。
あれは日本屈指の紡績企業の工場です。
東洋紡敦賀工場(とうようぼうつるがこうじょう)
この大きな工場が完全に旧道の行く手を遮っているのです。
しかしここに一つの疑問が生じます。
東洋紡の敦賀進出は、戦前じゃなかったか??
つまりこの旧道が戦火に飲まれるより前に工場があったということは、この立地はおかしいのではないかという疑問です。
青枠で囲ったところが大体の東洋紡の範囲です。
ここで僕は再び敦賀市史を紐解きました。
重要なところだけ抜粋すると・・・。
1933年 日本、国際連盟を脱退。大和田荘七、敦賀町新庁舎を寄付する。
1934年 福井県が東洋紡績株式会社敦賀工場の営業を認める。
1935年 敦賀セメント株式会社設立。
1937年 日中戦争勃発。敦賀町と松原村が合併し「敦賀市」が誕生する。
1941年 太平洋戦争勃発。
1945年 敦賀空襲。市域の八割が焼失。太平洋戦争終結。
敦賀市史「通史編」より抜粋
日中戦争と同じ年に敦賀市はできたのかとか、今はどうでもいいことに驚いてたりもしましたが、やはり東洋紡が敦賀に進出したのは敦賀空襲よりも前のことでした。
しかし逆にこの東洋紡の形がおかしいことにも気づきます。
現国道8号と接している部分は戦後増設されたものじゃないのか??
こんな道を仮定すると全てがしっくりくる!!
まずは東洋紡の反対側をチェックや!!
監獄を思わせる重厚な塀に囲まれている東洋紡。
しかし予想通りのぶつ切り具合です。
これだけ唐突に切られてるってのはかつてここに道があったと考えるには十分。
さて振り返って国道8号の合流地点まで向かいましょう。
住宅街の道路にしか見えない(笑)
しかしこういう道が意外と1000年以上続く道だったりするから、この趣味はやめられません。
仮定通りこの道が旧国道8号(当時は国道12号)だったとしたら軽く100年。
実際ははるかに古いかもしれないのです。
このお宝発見の瞬間が堪らんわけですよ!!
道幅は相変わらずのまま、少しずつ轟音響く国道8号の気配が強まってきました。
新しい順にいうなら近づいているあの国道も旧道ということになります。
最新の国道8号は敦賀バイパスを名乗って山側を直線的にぶち抜いているのです。
見えた!!
目的地である国道8号が目視できました。
この道のつながりはやはりここを旧道と言って間違いなさそうです。
ここまで来たらもちろん最後まで行きます!
今年は藪と工事に阻まれる年かもしれない・・・!!
まぁ実際問題分かってたんですけどね。
あわよくば通れないかなぁ・・・なんてね。
甘すぎでしたけどね(涙。
これで残るのは第1次探索のスタートである小河口(おごうぐち)と今回第6次探索のゴール地点である岡山。
この2つの地点を結ぶ区間の旧道のみとなりました。
市街地から山へ移り行くこの区間、藪と交通量両方に苦しめられること請け合いです!!
今年中には必ずやらなきゃなぁ・・・。
それでは最後に姿かたちも見えなかった、イケずなあの橋。
実は親柱だけは現存しているのです。
しかし場所は移転されて、現在の橋の袂にそっと置かれています。
それではご登場あれ!!
旧木ノ芽橋(の親柱)
位置的にも向き的にも移転されたことは明らかです。
場所もちょっと気にしながら走っていれば見逃さないような場所にあります。
しかしこういうのをちゃんと残してるというのは素晴らしい。
素晴らしいからこそ案内板くらいは欲しいところです。
教育委員会さんいかがですか??
そして重要なのはその側面。
個人的には当たり前だけど、遺構に刻まれていたのが嬉しかったこの文字。
国道12號
大正8年に国道の路線が指定しなおされたのに伴って、初めて敦賀市内の道が「国道」に指定されました。
それがこの国道12号、のちの国道8号となる国道です。
その名前が親柱に刻まれているということは、大正8年から昭和27年までの間にこの親柱が使われていたということに他なりません。(戦火にやられたとすればもう少し短い可能性もありますが)
そして永久橋がまだまだ少なかった大正8年においてこの規模の親柱が使われたのはまさに国道の証。
古代北陸道に端を発し、交通の要衝として機能してきた敦賀市の面目躍如だったことでしょう。
今は立ち止まる人も少ないこの親柱。
しかしその歴史を想うと、また立ち寄りたくなる場所です。
以上、旧国道8号第6弾 敦賀市内編
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