岐阜遠征第3弾 勝地峠
久しぶりに峠があるわけでも廃道があるわけでもない、緩めのレポとなりました。
その際に紹介した上の地図、オブ眼の発達している皆様なら当然気付かれたかと思います。
上石津トンネルを迂回するもう一つの道の存在に!!
青線で表示したのがその道。
多良峡を山側に迂回するように作られたこの線形は古い街道筋の特徴です。
峡谷は景色はすばらしいですが、交通という意味では明らかにマイナス。
わざわざ険しい所に道通す意味わかんねえよ!!
そんな昔の人の声が聞こえてきそうです。
そしてこの旧旧道には峠があります。
地図にもその名が載っているので、もったいぶらず行きましょう。
勝地峠(かちぢとうげ)
僕個人としても懐かしの地・・・。
さぁ行ってみましょう!!
第2弾でも紹介したこちらの交差点。
これを右に曲がれば旧道、直進すれば現道、そして左に曲がれば旧旧道となります。
旧道と旧旧道は関ヶ原側では直接ぶつからないので、ここがトレースするなら最初で最後の接点となります。
なにはともあれ、左を見てみましょうか・・・。
お前だ!!
実は僕、この地に立つのは2回目です。
初めて車を手に入れてから1週間後。
僕はこの峠を(なぜか)攻めようと思い立ったのです。
あれはもう10年以上前か・・・。
その時僕は逃げました。
当時の愛車、きゅーぶくんを痛めるのを恐れたのです。
しかし、今の僕はあの時のような若造じゃない。
髭も贅肉も蓄えた立派なおじさんに変貌しつつあるのです!
行けないわけがない!!
集落部分を抜ければもうエスケープルートはありません。
ここが最後の逃げ道となります。
まぁこの道から抜け出そうとするのはあの当時の僕くらいかもしれませんが。
切り通しの古い道。
かつては伊勢街道と呼ばれた道の一部です。
伊勢神宮は古くから日本人の心の故郷として、多くの人が一度は訪れてみたいと願う場所でした。
この道も神宮を詣でる人が1000年以上通い詰めた道なのでしょう。
そう考えると、あのとき引き返した自分はバカだったなぁと思います。
まぁちゃんと今日リベンジしますから。
伊勢神宮についてもう一つ語るならば。
「なぜ伊勢神宮は世界遺産に含まれないのか」という話をしたいと思います。
すぐ南の関係も深い熊野古道が世界遺産に登録されているにもかかわらず、神宮自体が登録されないのはおかしいだろ!というのは最もな意見と言えます。
これに対する明確な答えは「伊勢神宮は世界遺産に登録する必要が無いから」と言えます。
もう少し具体的に言えば「伊勢神宮には古いものは存在しないから」と言いかえることもできます。
今年2013年は最も古い状態の伊勢神宮を見ることができた年と言えました。
「式年遷宮(しきねんせんくう)」
20年に一度、正殿と別宮の建物をすべて建て直し、移転するのです。
これは伊勢神宮に伝わる「常若(とこわか)」の精神によります。
常に新しい建物に包まれることで、神宮は不老不死の精神の宿る聖地たりえるのです。
それゆえにユネスコからは「古いものじゃないよね?」と見られてします。
しかしそれで良いのです。
式年遷宮が続く限り、世界遺産として保護される必要はないのです。
ある意味これは日本人の誇るべき事柄だと思います。
訪れたことが無い方は、ぜひ一度詣でてみることをお勧めします。
絶対損はしませんよ。
道の話に戻ると、道は勾配も抑えられた非常に「歩きやすい道」だという印象を受けました。
くねくね道は車には不便ですが、徒歩ではそれほど苦になりませんから。
しかしこの道、10年前の記憶だともっと路肩の草が覆いかぶさってたような気がするんですが・・・。
もしかして今回は来た時期が良かったのかな・・・?
それとも過去のトラウマが道を悪魔に見せていただけなのか。
勝地峠、着。
いきなり古道!!
ではなく、舗装路の峠から古道が伸びていて、そちらが本来の峠となっているのです。
切り通しが美しい。
切り通しはやっぱり未舗装の方が美しいですね。
舗装路には峠を示すものが数多くありました。
それだけ歴史が深い峠だということがわかります。
峠には松尾芭蕉の歌碑が残されていました。
芭蕉さんはそういえば「奥の細道」が有名ですが、大垣市はその結びの地でしたね。
敦賀にも歌碑が残っていますが、江戸時代にこれだけ日本中を歩き回ったというのは凄いですね。
一説には忍者だったなんて説もあるらしいですよ。
眉唾もんですが(笑)
道は下りに入りますが、特に景色は変わりません。
市境でも無い峠です。
町域としては上鍛冶屋と一之瀬を隔てていますが・・・。
歴史を鑑みなければ、それほど目立つ峠ではないでしょう。
ここは標高183mという低い峠ですが、両側とも勾配が険し過ぎて馬が登れず「徒歩(かち)路(じ)」と呼ばれた所からその名がついたとも言われます。
その険しさは現代ではなりを潜めていますね。
関ヶ原の合戦の際、この峠は退却戦の舞台となりました。
島津の退き口
かつて伊勢街道最大の難所と言われたこの峠は、合戦で傷ついた兵士たちにとってさぞ険しい道のりだったことでしょう。
この退却の主役は島津義弘(しまづよしひろ)九州は薩摩の武将です。
関ヶ原の合戦に敗れた島津隊は烏頭坂にて敵に取り囲まれてしまいます。
しかしここで急遽反戦に転じ、家康本陣ギリギリにまで迫り、退却に成功。
そこから捨て奸(すてがまり)という、壮絶な作戦をとります。
殿軍(退却における一番最後尾)の中から小隊を一隊道中に残し、死ぬまで敵と応戦し時間を稼ぐというものです。
残した小隊が全滅したら、次の小隊を残す。
これを繰り返すことで本体は無事逃げきれましたが、薩摩に戻った時1500いた島津隊はわずか80名になっていたとのことです。
薩摩島津の強さを示す逸話として今なお語り継がれています。
峠にお地蔵様が無いと思ったら、関ヶ原側にありました。
この峠、恐らく相当の血が流れたのでしょう。
そう考えるとこの祠もなぜか不気味なものに見えてしまいました。
すんごいぶれてるし。
手を合わせて先に進みます。
一気に下ってきました。
道は上石津中学校の横を掠めながら、一之瀬を目指します。
なんか学校って合戦跡に多い気がする。
なんで?七不思議作る為?
多仁林道(たにりんどう)
それがこの道の名前だったそうです。
ちなみに勝地林道(かちじりんどう)という林道もあり、こちらは峠から分岐しています。
写真撮り忘れた・・・。
ちなみにダートなのでしゃりおくんでは論外です。
路面崩壊を誘発するだけなので、自重しました。
ていうか死にたくないので。
小さな木の看板が「勝地峠」の案内をしていました。
旧道はまだ続きますが、僕はここで国道365号に復帰します。
3代の道が未だ現役で残る上石津の伊勢街道。
オール現役というのは意外と珍しいんじゃないでしょうか?
まぁ旧道は今ちょっと休憩中ですが・・・。
まぁそれほど遠くないうちに再び開通するでしょう!
なんかやたら文字の多いレポになりましたが…。
以上、勝地峠編
0コメント