三重遠征第3弾 初代長野隧道 後編
最初こそ急勾配だった小道ですが、ある程度登りきると道幅が広がり勾配も落ち着きました。
中編でも見たとおり、この道幅、この勾配こそ、明治の馬車道の特徴。
現在も馬車道は再利用されていて、アクセスが良いように国道(旧ですが)にショートカットが作られたのでしょう。
写真撮り忘れましたが、勾配が落ち着いたタイミングで振り返ると、確かに古い廃道がありました。
雪の中辿るのは即断でNO!と言えるほど濃密な奴が・・・ね・・・。
じわじわと高度を上げていく馬車道、いやあえてここは旧旧道と呼ばせていただきましょう。
道筋は国道を離れ、山の奥に入って行きます。
砂防ダムの手前を暗渠で乗り越えていきます。
明治時代には清流を木橋で渡っていたのでしょうか?
そんなことを想像しながら道筋を辿るのもまた楽しいものです。
さらに進むとこんな場所に出ます。
恐らくこれは砂防ダムによって大分地形が変わっていると思われます。
その砂防ダムを渡るガーダー橋。
これは・・・
1番乗りは俺のもの!!
男はいつまでたってもガキんちょです・・・。
橋は連続しています。
奥の方には鳥居が設置されていました。
もともと祠があった場所なのか、隧道に関連したものなのか?
僕は前者と考えます。
だってお地蔵様ならまだしも、祠まではなかなかね。
さて橋を渡ればそこには・・・。
祠
もちろん手を合わせますが・・・。
ここで道は行き止まり。
あれ?隧道どこ行った?
まさかの完全埋没??
しかし位置的なものを考えれば、ここより左側の斜面のどこかに口を開けていた可能性が高い。
こうなりゃ意地だ!
なんとしても見つけてやる!
はぁはぁはぁ・・・
30分の雪中探索の末、発見したのはこの石垣。
これは隧道の痕跡じゃないな。
しかもこの石垣を発見した位置は高すぎる。
この位置じゃ津市側の坑口からかなりの急勾配で登らないといけません。
そんな形跡も無かったしなぁ。
これは恐らく旧旧旧道(ややこしい!)。
初代伊賀街道の石垣ではないでしょうか?
つまりは江戸時代の道。
明治隧道は2代、旧長野隧道は3代、新長野トンネルは4代目の道ということになりますね。
まぁ僕が把握してるだけで4代なので、歴史を紐解けばもっと古い道もあるかもしれませんが・・・。
なんにせよこの石垣のくたびれ具合、いい感じです。
まぁこの発見のおかげで30分分くらいの労は労われたかな・・・。
2本目の橋上からの撮影です。
写真で言うとこの右側の斜面を徹底捜索したのですが、よくよく斜面を観察すると右側斜面というより奥の斜面が怪しいような気がしてきた。
うん、ちょうどあの砂防ダム辺り・・・。
ん?
なんかあの砂防ダム、違和感が・・・
あるような・・・
隧 道 発 見 !
これは予想外!
近づいてみるまで完全に砂防ダムだと思ってたよ!!
だって完全に水路になってるし、埋没隧道は今まで何回も見たけど、河没隧道は見たこと無いぞ!
これが接写です。
大変申し訳ありませんが、この隙間では正月太りした僕の腹がつっかえてしまい進入できません。
覗いても暗闇が続くだけです。
地図上では直線の隧道で、津市側の開口は確認しているということは、中間部での閉塞は確定的ですね。
これが津市側のポータルなんですが、全然作りが違いますね。
まずピラスター(飾り柱)がありませんし、迫り石(アーチを形作る四角形の石材)のデザインも全く違います。
共通点を上げるとするなら笠石の崩れ方が一緒くらいか(笑。
率直に言うなら伊賀市側はしょぼい。
伊賀市の皆さん、ごめんなさい。
でも本当なんだもん・・・。
まぁそれでも明治隧道であることは疑いようのない事実。
阿曽隧道や金ヶ崎隧道と並び称されてしかるべき立派な隧道です。(貫通してるってのは大きいですが)
津市側を見なければ十分立派です!
津市側が立派過ぎるんだよな・・・。
隧道手前から今来た道を振り返ると、橋の袂から微妙に踏み跡が出来ていました。
これは街道筋ではなく完全に、「オブローダーによる踏み跡」ですね。
まぁ近畿東海では有名な隧道ですからね。
さて僕はこの後、伊賀市の峠を攻めに向かいました。
まだまだ続く三重遠征!
以上、長野隧道編
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