旧国道27号古橋群 金山橋編

旧国道27号、福井県道225号に架かる古橋は粟野橋だけではありませんでした。
それはここから美浜方面に進むと現れます。
この辺りは敦賀市の中でも「粟野地区」と呼ばれる地域です。

敦賀郡粟野村(つるがぐんあわのむら)

明治22年に発足した旧敦賀郡の村です。
隣接自治体としては旧敦賀市、敦賀郡中郷村(つるがぐんなかごうむら)、愛発村(あらちむら)、三方郡山東村(みかたぐんさんとうむら)、滋賀県高島郡剣熊村(たかしまぐんけんくまむら)、西庄村(にししょうむら)、この1市5村に囲まれていました。

これはあくまで当時の市町村名ですので、現在に表わすと2市1町。
敦賀市、美方郡美浜町、滋賀県高島市です。

敦賀市への吸収合併が昭和30年。
ちょうど60年前まで、この地域が別の村だったというのは30代の僕としては意外な印象ですね。
平成の大合併でできた市町村も60年も経つと、そんな感覚になるんでしょうね。
粟野村には敦賀市とは別に、ある重要施設がありました。
現在では見られないその施設は現在も跡としてその痕跡をとどめています。
そしておそらく、粟野橋と今回紹介する橋も、大いにこの施設の影響を受けているのでしょう。

大日本帝国陸軍敦賀連隊区(つるがれんたいく)

連隊区とは区域内の徴兵や召集を司る司令部が置かれた機関であり、敦賀連隊区は福井県西部、滋賀県北部、岐阜県西部を管轄していました。
いわば近畿北東部、北陸西部、東海北西部を所管する重要施設が置かれていたというわけです。

写真右側に写っているのは、関ヶ原の謎の穴でも見たアレ。

哨舎(しょうしゃ)

司令部の前ですから当然見張りは必要です。
しかし相変わらず暑苦しそうだな・・・。
そして連隊区司令部跡を過ぎればすぐに本当の目的が現れます。
相変わらず、欄干低い!

金山橋(かなやまはし)

こちらも綺麗に風景と同化してますね。
近年の橋は自然と人工物の対比が美しいですが、古い橋は景色の中に融和している印象を受けます。
どちらがいい悪いではなく、どちらも良いのです。
藤崎橋も金山橋も、僕はどちらも大好きです!
粟野橋は親柱も小さめで人工石仕様でしたが、こちらは親柱は大きめで自然石を使っています。
これはどちらの方が重要度が上だったかということに他なりません。

渡る河川の名前は井の口川(いのくちかわ)。

敦賀市に流入する井の口川水系の本流です。

堂々の昭和8年竣工。

余裕の戦前橋です。

そんな老兵がいまだに現役でいられる理由は、その出自にこそあります。

「金山」はこの辺りの字です。

近くには「金山彦神社」という神社があり。鉱山の神である「金山彦大神」を奉っています。

野坂山の麓の鉱山由来なんでしょうが、ここも結構謎深いんだよなぁ。

しかしすっごいスキューしてるな君は。

この辺も橋の由来に関係ありそうで。

というより由来はもう語ってるんですけどね。

上で語ったアレです。

ようするに軍の重車両が通行するのに、軟なくねくね道じゃいけないということです。

なるべく直線の道を作るためには川の角度も無視してまっすぐぶち抜くのが一番。

緩やかなカーブを多用した街道らしい作りです。

橋の横には歩道用の橋が架けられているので、撮影も楽々(笑

これがないと案外大変な撮影だったかもしれません。

下手な国道より交通量ありますからね、ここ。

しかし欄干の隙間にめっちゃ土詰まってるな。

すごくきれいにしたい。

すごく。

振り返り見た金山橋。

奥に見える桜ヶ丘団地が元は敦賀連隊区だった場所です。

位置関係としてこの橋の重要度がうかがえますね。

そして金山彦神社に至り、今回のレポは終了です。

この先は関峠を越えて美浜町に入ります。

美浜町の旧道にもいい橋がありますからね。


もともと27号には舞鶴鎮守府に至る軍道としての側面がありました。

そのアクセスを支えるため立派な橋が多く架けられたという歴史を垣間見ました。

道に歴史あり。

地元の小さな橋にも、日本の歴史が深く絡んでいると思うとただ渡るだけじゃ物足りないですね。


以上、金山橋編







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